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尺には尺を

「尺には尺を」 @板橋演劇センター

CoRich
今回は初めての「尺には尺を」鑑賞ということもあり、また
予習の時間が取れなかったということもあり、勉強不足
が否めない。


演劇を観て感じたのは、登場人物のエゴのぶつかり合い
がすごいということだ。

特にイザベラがクローディオに会って嘆願の顛末を
話すところがすごい。

自分の一番大切なものを守るためには、相手の一番
大切なものですら軽く見えてしまう。

現代の感覚からすると、兄の命を救うなら一晩くらい
いいじゃないかと思ってしまうのだが、当時の価値観
では貞節(処女性)はそれほどの重みを持っていた
のだろうか?

「命なら喜んで差し上げるけれど、貞節は駄目」という
台詞を聞くと、本当に命を差し出す気があるのかとすら
疑ってしまう。


小田島訳を読んだとき、「恋に落ちる」というイメージ
からアンジェロを若いイメージで想像していたが、
想像よりも年配の方が演じていた。

よく考えてみると、公爵代理を務められるぐらいなの
だから、中年以上でないとおかしいのだろう。

「年寄りが若い娘に言い寄る」というとファブリオの
滑稽なイメージになりそうだが、これはセクハラと
いうか、なんとなく嫌な印象を感じた。

役者のイメージではなく、おそらく芝居の書かれ方
がそうなのだろう。

若い女に言い寄るマルヴォーリオはひたすら滑稽
に描かれていたが、パワーバランスの違いなのかも
しれない。


たしか小田島訳の解説に「公爵が最後の最後まで
真相をイザベラに明かさず、冷たくあしらうのは不条理」
のようなことが書かれていたが、確かに公爵の行動
はいまいち納得できなかった。

また、観客としては手の内が途中で全部わかって
しまい、訴訟の場面ではひたすらそのトリックを
なぞっているだけなので、ちょっと飽きてしまった。

もちろん、シェイクスピア劇は予習してから行くので
筋が全部分かっているのが普通のわけだし、
「冬物語」以外は観客と登場人物が計略の情報を
共有しているのだが、
(このあたりはジラール『羨望の炎』にちょっと記述
があった気がする)
それでも見ているときには話が展開していくのを見る
面白さがある。

それがこの作品には感じられなかったというのは、
説明されたことの繰り返しになってしまっている
からだろうか?

それとも公爵が感じ悪いから?

もし、観客が筋を知らないのが前提で、なおかつ
エンターテイメント性を追求した舞台(映画?)を
やるなら、公爵/修道士の正体と彼が考えた計画
は全部伏せておいて、ラストになって初めて観客
にも知らされるようにした方が面白そうだ。


また、小田島訳の解説には「最後に公爵が求婚
するが、イザベラは果たして嬉しく思ったのか」
ということも書かれていたと思ったが、今回の
舞台では彼女が受け入れたかどうかは明示
されていなかったように思う。

見ていても、求婚したくなるような恋愛感情
の発展は見られないし(どちらかといえば
親子関係に見える)、公爵は遠藤栄蔵が
演じていたので、娘どころか孫と結婚
するように見えてしまった。

現代日本でも45歳差結婚があったので、
若い娘と老人の結婚はありえるのかも
しれないが、イザベラが嬉しがるかは
たしかに疑問である。

彼女には「終わりよければすべてよし」
のダイアナと同じく処女崇拝を感じた。

公爵とイザベラの関係に関して、
Freedman, Penelope. 2007. Power and Passion in Shakespeare's Pronouns: Interrogating 'you' and 'thou' Ashgate.
という本に興味深い分析が載っていた。

恋人(とくに男性)は恋愛感情が高まった場合相手
にyouではなくthouを使うことがあるが、公爵が
イザベラに、またイザベラが公爵にthouを使った
ことは一度もないという。(p. 99)

また、公爵の求婚に関しては、少なくともthouを
使った恋愛感情の発展が見られないことと、
イザベラからの返答がないことから、プロットの
重要な締めくくりというよりは芝居上の約束事に
近いのではないか、と述べている。(<i>ibid.</i>)

余談だが、この本はthouとyouの使い分けについて
作品ごとに考察しており、ラヴィニアがタイタスにthou
を使うのは神のごとく尊敬しているからだとか(神には
たいがいthouを使うらしい)、身分の高い女性が
身分の低い男性に言い寄る場合はthouを使うとか、
色々と面白い分析結果が書いてあった。


ベッドトリックでなぜ相手が違うとばれないのか不思議に
思っていたが、『中世の森の中で』という本に、(少なくとも
中世では)ロウソクなどはつけないので寝室は真っ暗と
書いてあったのを読んでから納得がいくようになった。

時代が違うが『カンタベリー物語』の「親分の話」(The Reeve's
Tale)にも、寝室が真っ暗でベッドを間違えたという描写が出てくる。

アンジェロが中年とすると、その婚約者であるマリアナも
若くはないはずで、どちらも若い娘であるヘレナとダイアナ
ならともかく、例えば15歳と30歳の肌を区別できないとも
思えないが、あまり深く考えてはいけないのだろう。


マリアナといえば、どこかの展覧会で見た青い服を着た
マリアナの絵が綺麗で印象深かった。

近代の画家で、ミレーあたりだろうか。

腰をひねったポーズは性的欲求不満を、室内の髑髏は
死のイメージを表している、と解説に書いてあった。

Wikipediaを見ると他の画家もマリアナを題材にし、
テニスンも詩を書いているそうなので、お堅いだけの
イザベラよりも悩み深いマリアナの方が創造心を
掻き立てるのかもしれない。
(イザベラに比べると出番はずいぶんと少ないが)

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