映画「テンペスト」を観てきた。
映画として出来がいいかは疑問符だが、シェイクスピアを学ぶのには
オーソドックスで向いていそうだ。
主人公プロスペローが女性プロスペラになっていたが、その変化を
意識させないほどに自然であった。
同じぐらい出来のいい女性化としては、シェイクスピアシアターの
『空騒ぎ』でレオナートを女性レオナにしたのが挙げられる。
むしろ、画面上では全裸の妖精エアリアルが気になってしょうが
なかった。
この映画で何が一番印象に残ったかと訊かれたら、間違いなく
「エアリアルの裸体」と答えるだろう。
エアリアルがトリンキュロー達を驚かすシーンでも、エアリアルの
姿が蜂などで表現されていて、とにかくエアリアル役の俳優の姿を
前面に押し出した演出がされていた。
ご馳走の後のハルピュイアといい、かなりインパクトのある姿だった。
ただ、使われていたCGは前時代的というか、いかにもCGという絵柄
だったので、ちょっとがっかりしてしまった。
パンフレットを見ると「プロスペローを女性にしたことにより、
権力簒奪の構図がより明らかになった」と書いてあるのだが、
そのテーマはプロスペラが自分たちの身の上をミランダに語る
シーンで「私を魔女だと~」と言うぐらいしか表に出てこなかった
ように思う。
魔女裁判を打ち出すなら本物の魔女であるシコラクスとの対比が
あるとよかったと思うのは欲張りすぎだろうか。
原作では父-娘、母-息子という異性の親子の組み合わせであるが、
そこになんらかの意図はあるのだろうか。
悪魔と魔女の息子というと『
ベーオウルフ』を思い出すが、
そのイメージはあるのだろうか?
そもそもシェイクスピアは『ベーオウルフ』を読んだのだろうか?
母-娘にすると、強姦者であるキャリバンに対して女同士で結束して
身を守るという構図は見てとれるかもしれないが、この時代は
娘の純潔に対して父と母のどちらがより重要視していたかが
分からないのでなんともいえない。
同性の親子であれば、終盤でアロンゾー達を岩屋に案内する場面で、
「子供を失う」が父-息子のアロンゾー・ファーディナンドと
好対照をなすかもしれない。
パンフレットの一部でアントーニオーは義弟となっているが、
台詞が原作通りなのと、王に弟がいるのに娘はともかく妻に王位が
渡るのも変なので、プロスペラの実弟だろう。
冒頭は普通の映画のようだが、嵐の場面でthouとか言い始める
ので、そのギャップに笑ってしまった。
シェイクスピアの原本がそうなので別におかしなことでは無い
のだが、欧米人がこの映画を見たらどのように感じるのだろう。
日本の時代劇で「~ござる」など言っているようなものなの
だろうか。
字幕は現代日本語だったが、英語の古さに合わせるなら
坪内逍遥訳をベースにすると合うかもしれない。
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