Sheffield University Theatre Company 'King Lear' @University of Sheffield Drama Studio
学生劇団による「リア王」を観てきた。
英語圏での上演なので当然ながら英語上演・字幕無しである。
Violenceを強調するとか書いてあったので、
やたらと殴りあったりするのではないかと心配したが、
(正直言って
リチャードIIの乱闘続きにはうんざりさせられた)
先に見た友人の話だと「良かった」とのことだったので、
観にいくことにした。
演技はそれほどうまくなかったような気がするが、
悪くはなかった。
5£とかなり安かったというのもある。
面白かった点としては、道化が3人の女性になっており、
『マクベス』の3人の魔女を連想させた。
道化の衣装はゴスロリ風やピエロなど、道化らしい服装だが、
メイクの関係で少々邪悪にも見えた。
原作や蜷川版(さいたま初演)だと道化はリア王側の人間
(辛らつな言葉を吐くのは王を思ってこそ)に思われたが、
この女性ピエロたちはリア王を破滅に導く魔女のようである。
確か蜷川版では道化は終始苦い顔をしていたと思ったのだが、
女性ピエロはにやにやと笑い、ひらひらと舞っていた。
シェイクスピアというより、『不思議の国のアリス』に出てきそうである。
『マクベス』で「マクベス夫人は魔女側かマクベス側か」という議論があった
ような気がするが、『リア王』の場合、女性とリア王との関係はどうなのだろう。
道化を女性にしたことで、ゴネリル、リーガン、道化の女の勢力がリアを圧倒していくようにも見えた。
3姉妹を3兄弟にした「乱」を比較に見てみると面白いのかもしれない。
個人的には現代の介護問題に置き換えた日本の翻案ドラマも見て見たいが、
残念ながらタイトルと放送局を忘れてしまった。
確か大阪のほうだったと思ったのだが……。
種本とは異なり、シェイクスピア版ではリア王の家系が全滅してしまうが、
これにはどういう意図があるのだろう?
ハムレットもそうだが、一家断絶というのが何かを象徴しているのだろうか。
悲劇の定義は「主人公が死亡する」だったと思うが、そう考えると
他の死体まで並べなくとも”悲劇”にはなるわけで、例えば
「ロミオとジュリエット」のパリスの死はある意味必然性の無いものである。
別の作者の「あわれ彼女は悲劇」でも最後は死屍累々なので、
そういうのが当時流行っていたといわれてしまったらそれまでだが。
全体のトーンがすごく重い悲劇だと感じた。
英語がよく分からなかったので自信が無いが、「ハムレット」に見られるような
言葉遊びはほとんど無いのではないか。
この暗い雰囲気の中でラストをハッピーエンドに改変してしまったTateは
すごい力技だなあ、と妙なことを考えてしまった。
Tate版も見て見たいけど、どこかでやらないかな。
個人的な好みとしてはエドガーがかっこいいと思う。
見方によっては「リア王」は彼の成長物語だ。
蜷川版でも思ったが、最初は無害そうなぼんぼんだったのが
(蜷川版では眼鏡にコートという優等生ルックだった)
いきなり命の危険に晒されて急成長を遂げねばならない。
おそらく追放された時点ではエドマンドには勝てなくて、
再びエドマンドにあいまみえるまでの短期間で
エドマンドが今まで積み上げてきた努力・策略との間を埋めてしまうのだ。
「危機が人間の潜在能力を目覚めさせる」ということの例だろうか。
エドマンドもエドガーもかなりの演技派だが、もしかしてこれは父親からの遺伝なのだろうか?
エドガーを主人公にして「江戸川家仇討」とかいう歌舞伎でも作ったら
日本人の感性に合いそうだが、
なぜか「リア王」は他の4大悲劇と比べると上演の人気が無い。
ハムレット≧マクベス>オセロー>>>>リア王
くらいの差がある。
名前が知られていないということは無いと思うので、
主人公が老人でキャストを当てはめにくいとか、そういう理由だろうか。
おそらく劇団の人員の都合で、ケントが女性になっていた。
台詞もherなどちゃんと女性に置き換えられていたと思う。
一方、foolに関しては女性・複数になっていても Boy!などと呼ばれていたので
こちらは台詞の改変は特にしていなかったようだ。
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