むかし小田島訳を読んだときは退屈だと思ったが、予習のために
読み返したら辛くやるせない話だと感じ、一方、今回の公演は
どことなく戦争物語の不条理さを感じた。
不条理劇というと先日の「
ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」
が思い出されるが、あれは普通の人が突然死ななければならない
不条理さを扱っていたが、今回はもっと不気味なものであった。
特にサーサイティーズ(テルシーテース)が印象深い。
彼は道化役なのだろうが、フェステのように人を笑わせる明るい
道化ではなく、『リア王』で痛切な批判を行う道化や、
『お気に召すまま』のジェイクイズ、さらには自分の虐げられた
現状に対する恨みつらみを述べる場面では『ヴェニスの商人』
のシャイロックさえ連想させた。
笑わせるという意味での道化ならパンダラスのほうだ。
彼はギリシャ軍の召使いではあり、原作だとトロイ軍(プリアモス
の私生児)に戦いを挑まれるのでギリシャ側の人間と認識されて
いるのだろうが、今回ではサーサイティーズが戦うシーンが省略
されているせいか、一歩引いて戦争と愛欲を揶揄する人物という
印象付けが強かったように思う。
サーサイティーズのように自分の境遇(私生児・身体障害・扱いの悪さ)
を恨む人物というとリチャード三世やエドマンドがあるが、彼ら
は地位を上昇させる手段があるからあがくのであって、
サーサイティーズのような寄る辺のない底辺の人間では
罵ることで憂さ晴らしをするくらいしかできないのかもしれない。
ヘクトールが殺される日の戦いで、ヘクトールがアキレウスに
戦いを挑まれるも、立派な鎧をつけた兵士を見ると鎧が欲しく
なって追いかけてしまうシーンを謎だと思っていたが、どうも
これは「アキレウスの友人パトロクロスがアキレウスの鎧を
つけて出陣したら、ヘクトルが本物と間違えて殺した」という
エピソードのような気がする。
小田島版の訳だと「豪華な鎧をつけた兵士登場」で中身が
誰とは書いていないので、ヘクトルが目先の鎧に心奪われて
アキレウスとの約束を忘れて勝手にどこかに行ってしまう、
という風にとってもらいたいのかもしれないが。
いずれにせよ、今回の公演では「ヘクトルが兵士を追いかける」
箇所は削除されており、誰が兵士役だったかわからないので判断
のしようがない。
ちゃんと他の作品と比較したわけではないが、この作品では
1人の登場人物がしゃべる量が多い。
元々演劇というのは人工的な会話で、普通の会話と違って遮りや
オーバーラップが異常なほど少ないわけだが、それでも普段は
会話のかたちとしてとらえられる。
しかし今回は、とにかく1人の人物がしゃべり続ける時間が
長くて、異常に感じてしまった。
オデュッセウスやトロイラスの長い発言はもちろんだが、
クレシダの小姓でさえ一人で延々としゃべる。
また、長いセリフは会話らしく見せかけるのが難しい、
「文章を読んでいる」のではなく「聞き手に話しかけるには
どういう様子をすればいいのか」という問題もありそうだ。
独白も1人でしゃべるという点では同じなのだが、
独白はまだ「芝居上の決まりごと」と受け入れればいいので
いいとして、「1人が延々喋り、また別の人が長々としゃべる」
は会話の形をしているが現実的でないものなので、
どうにもとらえ方に困ってしまう。
トロイラスがクレシダの美しさについて「彼女の肌の白さに比べれば
白鳥も真っ黒」のようなことを言うが(ロミオなど他の劇でもある
ことだが)、これを聞いて『鏡の国のアリス』の女王が
「山だと? あんなものXXに比べたら谷だ」と発言する
おかしさを指摘した文献があったのを思い出した。
後でその本を読んでからちゃんと書くべきなのだが、矛盾には
ならないのだろうか。
冒頭の序詞ではトロイの城門の名前が6つも出てきて、そのどれも
が全く馴染みのないものであるのだが、当時の聴衆はトロイ戦争の
ことをどれだけ知っていたのだろう。
この作品に限らず、シェイクスピアにはギリシャ・ローマ神話への
言及が多く、トロイ関連だと『ハムレット』で劇団員が演じてみせる
のがトロイ陥落の下りだし、『恋の骨折り損』か何かで過去の英雄集
のような演劇を平民が出すときも、トロイ戦争の英雄もとられていた
と思うが、これはシェイクスピアがローマ神話を好きだったのか、
それとも当時の民衆の共通知識、あるいは共通に好まれる事象だった
ために多く取り入れたのだろうか。
時代がルネサンスなので古典趣味もあったのかもしれないし、
チョーサーからアイディアを得ただけなのかもしれない。
現代の欧米の観客なら当時の観客同等(それ以上に?)の知識を持って
いるかもしれないから、このままの上演でもいいのだろうけれど、
ふつうの日本人観客がいきなりこの劇を背景知識なしで見たら
よくわからないところもあるのではないだろうか。
(たとえばカサンドラーがみんなに無視されるのはなぜか、など)
ギリシアに行った後クレシダがどうしたいのかがよくわからなかった。
「さようなら、トロイラス」というセリフがあるので、クレシダは
もうトロイラスを愛してはいないと判断されるのだが、今回の
芝居ではディオメーデスが好きになったのか、彼のことは本当は嫌だが
たらしこんで利用したいのか、どちらとも判断つきかねた。
トロイラスがクレシダと別れてからギリシャ陣営に行くまで何日経った
かにもよるかもしれない。
和訳を読んだときは勝手に1日だと思っていたが、エージャックスと
ヘクトルの決闘がいつとは書かれていないので、実はかなり時間が
経っているのかもしれない。
ヘクターが殺される場面では、「武装を解いているので待ってくれ」
云々が省略され、多勢に無勢という状況だけが描かれた。
武装を解いたヘクターを惨殺するのは戦闘の無常観を出したかったの
だろうか。
ここは後述のトロイラスのシーンと共鳴するものがあるのだろうか?
終盤でトロイラスの「敵の命をとるなんて甘い」というセリフがあるが、
ヘンリー6世3部作のどこかにも捕虜を生かすか殺すかという話が出て
きた気がする。
この当時の戦争のことはわからないのだが、捕虜は当時も重要であった
のだろうか。
そもそもシェイクスピアが戦場に行ったかどうかがわからない。
よく本にまとめられているシェイクスピアの生涯には従軍という記述は
無いので、少なくとも現在判明していることからは戦争に行っていない
と考えられるのだが、この作品にも見られる戦争の無常観、あるいは
戦争を厭う気持ちはどのようなことがきっかけで現れてきたのだろうか?
最後の場面では気落ちしたパンダロスの笑いとかぶせるように
サーサイティーズの笑い、そして炎が舞台を包み込む描写で
終わったが……個人的には、それは少し早いのではないかと思う。
確かに、サーサイティーズに痛烈に戦争を批判させる技法としては
いいとは思うし、トロイ戦争自体を知らない観客に勝敗をそれとなく
臭わせる効果もあるのかもしれないが、『イリアス』のほうでは
ヘクターを倒してもすぐ戦争が終わるわけではなく、結局何年も
長引いて終わるのですぐにトロイ落城を連想させるのは早すぎる
気がする。
もし小田島訳の解説にある「生き続ける悲劇」という指摘が正しい
のであれば、この劇は永遠に戦い続けるイメージで終わったほうが
よかったのかもしれない。
<人物対応メモ>(英語読み:ギリシャ語読み)
アキリーズ:アキレウス(Ἀχιλεύς, Achilleus)
アンティーナー:アンテーノール(Ἀντήνωρ, Antenor)
エージャックス:大アイアース
カッサンドラ:カサンドラー
サーサイティーズ:テルシーテース(Θερσίτης, Thersites)
ネスター:ネストール
パトロクラス:パトロクロス(Πάτροκλος, Patroclus)
パンダラス:パンドロス(Πάνδαρος, Pandaros)
ヘクター:ヘクトール(
ポリクシーナ:ポリュクセネー(Πολυξένη, Polyxena)
メネレース:メネラーオス
ユリシーズ:オデュッセウス(Ὀδυσσεύς, Ulysses)
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