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シェイクスピア劇観劇記(ネタバレあり)
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シェイクスピア・シアター 「じゃじゃ馬ならし」
この芝居は「虚構」である。
スライに始まってスライに終わるのがいいね。
つまり、原作では劇中劇の終わり=芝居の終わりだが、本公演ではスライが闖入者として追い出されるところまで描いていて、「つくりごと」ということを観客に思い出させて幕切れとなる。
本で読んでいるときよりも登場人物たちの「とりかえっこ」(≒「虚構」?)が目立つ。
目の前で服を取り替える演出とか。
カタリーナがじゃじゃ馬なのはある意味虚構。
従順なはずのビアンカも「虚構」?
てか、ビアンカのがブリッコでやな女じゃん。
あれじゃぶん殴られて当然だね。
結婚式のシーンでカタリーナが普通の(新婦らしい)表情をしていたのには「あれっ」と思ったが、あれは生まれて初めて求婚されて(つまり、妹でなく自分が求められて)嬉しかったのかな。
ペトルーキオは「たとえ1万人が相手でもカタリーナを守ってみせる!」と字面だけはかっこいいし、今回のペトルーキオはよく主役やってる人だから見ていてなんかかっこいいし……まぁ、ルックスと口車はまさに詐欺師の常套手段だろうけど(笑)。
カタリーナが馴らされた後はどうなのか?
馴らされたのはペトルーキオに愛されている、ペトルーキオも本気で愛している、というのが希望的観測。
リーフレットにあるようにカタリーナの包容力の大きさを強調するならば、月と太陽以降は「全部分かっててやってる」ってことか?
「まったくしょうがないんだからうちの人は(笑)」みたいな感じだろうか。
でも、私の本音を言わせてもらうと、服従と包容は別物だと思う。
服従って結局は相手のためにならないし、包容は愛がないとできないんじゃないかな(愛は恋愛だけじゃないよ)。
ラストシーンのカタリーナの語りは聞かせどころであり、改心したカタリーナを見せつけるのが正当な読みだろうが、ひねくれた解釈をすると、あれも「虚構」と考えることもできるかも?
前者の解釈ならカタリーナがたおやかに熱心に語り、それを周りが傾聴する。
ここは気を付けないとダレるね。
後者なら……口調をですますにして、いかにも読んでいるようにすらすらと語らせる。
カタリーナとペトルーキオとの間の「遊び」の一種で、それを分かっていて楽しんでやっている。
となると赤毛のアンの謝罪に近くなるのか?
尤も、後者の読みはたぶん間違っていて、これは上記の様々な仕掛けにより「ウソコト」だということを意識して距離を置いて眺めるのがベストなんだろう。
キャストは
おかみ=カタリーナ
スライ=酔っぱらい
新郎新婦=ビアンカ&ルーセンショー
妻=トラーニオ
上記のようにスライがおかみに追い出されるシーンが付け加えられているので、「芝居のようにうまくいくわけないじゃん!」とカタリーナがペトルーキオに対する権威を取り戻すようにも見える。
DVぽい話で、ともすると暴力沙汰の暗い雰囲気になるところだが、積極的に笑わせようという演出なので終始楽しい雰囲気だった。
後半はちょっと暗かったけど。
そういや、「帽子屋と仕立て屋に謝っとけ」の台詞がなかったな。
ラテン語とシェイクスピア時代の観客との心理的距離は、ラテン語と現代日本人とのそれより遥かに近いことをなんとなく感じた。
ペトルーキオが友人に会う場面で、いきなり「ナイスツーミーチュー」とめっちゃカタカナ英語で挨拶したのでなんだこりゃと思ったが、召使が「ご主人様達はラテン語で挨拶しているけどおいらにゃさっぱり」と言うから、おそらく原文はラテン語なのだろう。
ラテン語と観客の距離は、日本人だと英語との距離に置き換えると近いのかも。
ルーセンショーがラテン語を教える場面では、当然ながらラテン語はラテン語のままだが、ひょっとしたら笑いをわずかに損ねているかもしれない。
ラテン語が分かる人なら、訳を始めた瞬間に違うこと言ってるなと分かるが、ラテン語を全然知らない周りの客たちは2~3行進んだところで状況を理解したようだった。
legoしか言ってないのに「私は○○のフリをしているが実は~の名門で…」と長々と喋ったので、ようやく気付いたみたい。
但し、ラテン語と観客との距離に関しては、最近立ち読みした『タイタス・アンドロニカスの手法』とかそんな名前の本で、蜷川の演出の分析で「強姦と殺人の罪が明らかになる場面ではラテン語が使われているので、観客との間に距離があるが、蜷川のでは日本語で言っているから観客に与える影響はより強い」みたいなことが書いてあった。
この手法は、新井先生の『不機嫌なメアリー・ポピンズ』にある『時計仕掛けのオレンジ』の原作とかなり近いんじゃないかなぁ。
私が読んだの福田訳だから気付かなかったけど、本公演は小田島の翻訳だから駄洒落満載。
こんな軽妙な会話だったのね。
原作でなんと言ってるのか気になる。