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喜劇ハムレット&悲劇?ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ

喜劇「ハムレット」&悲劇?「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」 @渋谷 大和田さくらホール

CoRich

「悲劇?」は「ひげきはてな」と発音するようだ。

結論としては、よしもと芸人を日替わりで出演させることから察せ
られるように、お笑いがメインだ。
企画のタイトルのつけかたからして、まともに原作通りやるはずが
ないということを察して観に行かないと「肩透かしどころか背負い
投げ」になる。


前半のハムレット部分はお笑いコンビは一瞬しか出番がなく、
主演はいまいちだったが、脇役はまあまあだった。

主役ハムレットはどうも台詞回しが固い。
わざとなのかもしれないが、全体的に淡々と棒調子で語るので、
ハムレットの感情の動きが見えなかった。
オフィーリアの方はいわゆるブリッコ調であるが、ハムレット
よりは生き生きとして見えた。


ハムレットとオフィーリアで気になったのは、身体的接触が
ほとんど無いことだ。
冒頭の導入シーンで肩をつかんだくらいで(これも気のせいかも
しれない)、不思議なほどハムレットとオフィーリアの距離がある。
「ハムレット」というとケネス・ブラナー版(たしか
タイタニック」のケイト・ウィンスレットがオフィーリアを
演じた)が印象的なのだが、あれはオフィーリアとハムレットの
ベッドシーンのフラッシュバックあり、「尼寺へ行け」では
ハムレットがオフィーリアを鏡に押し付けたり、と多分に
身体的接触があった。
今回のハムレットは、不思議なほどオフィーリアに触らない。
葬式の場面でさえ、ハムレットが来たときにはオフィーリア
(の役者)が舞台におらず、死体を抱きかかえて慟哭することもない。
アイドルを使うときは何か不文律のようなものでもあるのだろうか。
アイドルの多い蜷川作品では抱き合ったり男同士でキスしたり
全裸で舞台に上がったり、色々あったのだが……。


「喜劇」といえども卑猥な要素は取り除かれていた。
ハムレット&ロズギルの掛け合いと、オフィーリアの「娘じゃ
なくなった」という歌である。
ハムレットとロズギルの掛け合いはだいぶ省略されていたので、
ハムレットが狂ったというシーンが出る前にハムレットが「俺の
気が狂うのは北北西の風が吹くときだけだ」という台詞を言って
しまっていた。


服=登場人物という考え方を採用しているようで、それを利用した
ギャグもあった。
1人2役の早変わりで笑わせるのは、たしか子どもシェイクスピアの
シンベリン」最終幕にもあった。
ギャグは「喜劇」とするために無理に入れているような感もあった。
服を脱いだ役者がすっとどこかに行くのは、あくまで「この話は
お芝居」という象徴なのだろうか?
役者の服(登場人物の服を着ていない状態)はフェンシングのような
白い上下だった。


導入部で白い服の役者たちによる「ハムレットをハムレットらしく
演じる、それでいいのか」と部活動のような風景での会話が
あったが、結局何を意味しているのか分からなかった。
最終幕の後この導入部に戻るかのような演出はあったが、台詞が
無かったので、結局謎のままだ。


導入部でハムレットとオフィーリアの人生の要約が2人を演じる
役者によりそれぞれ語られるのだが、そこでふと、「ハムレットが
ヴィッテンバーグに留学していた」のがどういう意味を持つのか
気になった。
たしか「帰国したら王弟に王位を奪われた」という言い方だったと
思うが、ハムレットが父の悲報を受け取り帰国するまで、どれだけの
時間が流れたのだろうか?
シェイクスピア当時としても、1日2日でいける距離ではないのでは
ないだろうか。
父の死は突然だったので仕方ないとしても、30過ぎて外国に遊学
していて、その間に王位を奪われたとなると、少し不注意という気が
しなくもない。
少し違う話だが、ペルセウス神話でペルセウスの母ダナエーをものに
するためにペルセウスを冒険の旅に出させる話を思い出した。
ハムレットはペルセウスのように必殺の武器(叔父を追い落とす
方策?)を持たず、無策で帰国してしまったのが失敗だったのだろうか。


ハムレットからの手紙をホレイショーが読むシーンで、果たして
ホレイショーはハムレット不在の間何をしていたのだろう、という
疑問が浮かんだ。
王がハムレットを快く思っていないのであれば、その忠臣であり
親友であるホレイショーへの風当たりも弱くはないはずだ。
そういえば、ホレイショーは王側の人間との絡みが少ない。
ハムレットの様子を探るのにホレイショーではなくロズギルが
選ばれるのは、ホレイショーが忠臣すぎて懐柔できないと思われた
のか、それともホレイショーという存在が認知されていなかったのか?
ホレイショーはハムレット同様帰国した人間なので、帰国するまでに
何があったかも謎だ。

思い切って「ホレイショーはフォーティンブラスのスパイで、
デンマーク王家を内部分裂させるため幽霊話をでっち上げて
ハムレットとクローディアスの対立を煽った」という仮説も考えて
みたが、どうもうまく説明がつかなかった。
ちなみにこの考え方だと、ハムレットが去った後はフォーティン
ブラスのデンマーク遠征に向け内部工作をしていたということになる。

「ホレイショーはハムレットのイマジナリーフレンド。
元々神経過敏だったハムレットは父の死と母の結婚により極度の
人間不信に陥り、理想の親友を心の中で作り上げてしまった」という
仮説も作ってみたが、冒頭の衛兵とホレイショーの掛け合いは
ハムレットの想像ということにするのは苦しいし、何より
ハムレットが亡霊に会う前から狂っていたのでは、話としての
面白みが減りそうだ。


ホレイショーその他を演じた小林十市という役者、どこかで見た
ことある顔だと思ったら、舞台「エリザベス・レックス」で
エリザベスの愛人か何かをやった人だった。
Wikipedia


小林十市は劇中劇「ゴンザーゴ殺し」を落語仕立ての1人芝居で
やった。
なんだか柳家花禄のシェイクスピア落語「じゃじゃ馬ならし」を
思い出すなあと思っていたら、なんと柳家花禄の兄だった。
なるほど、だからああいう演出にしたのか。
元バレエダンサーで落語もできる役者というのはなかなか面白い経歴だ。


劇中でいきなりタップダンスショーが始まるのは、どうやら
タップダンスのパフォーマーが参加しているからのようだ。


原作では劇団員1人の独演であるトロイ陥落(トロイの木馬)が
劇中劇として再現された。
どことなく素人っぽさを感じさせる演出、たとえればプロというより
夏の夜の夢』の職人の芝居のようなドタバタ劇だったのだが、
果たして『ハムレット』に描かれている旅回りの一座とはどの程度の
レベルなのか、という疑問を持った。
たしか「都は少年俳優劇団に取られたので仕方なく地方巡業に出た」
という、執筆当時のイギリスの風刺が述べられていたと思うのだが、
そうだとすればアマではなくプロの劇団だろう。
さらに考えると、シェイクスピアの台本を上演した彼の一座の
演出方法や役者のレベルはどの程度のものだったのだろう、という
疑問も沸いてくる。
ハムレットが役者たちに「ヘロデ王のような大げさなのはやめて
くれ」とあるが、当時はそういうのが流行っていたのだろうか。
18世紀の俳優ギャリックに関して「今までとは違う写実的な演技で
好評を博した」という記述があったような気がするが、かつての
上演風景というのは現代の上演とは大いに異なっていた可能性は
あるだろう。
もちろん、当時の通りに上演する必要は全くないのだが、演劇の
要素を考える際に、当時と現在の相違を考える必要が出てくるかも
しれない。
おそらく当時の観劇記を当たれば多少分かるのだろうけど……。


宮川彬良の音楽をちょっと楽しみにしてはいたのだけれど、うっかり
そのことを忘れてしまい、BGMには注意を払わなかった。
あまり印象に残るものはなかったように思う。


以上がハムレットの感想。



後半の「ロズギルは死んだ」は、これは吉本のお笑い芸人コンビが
主役ということからも分かるように、お笑いが主体だ。
そして、私はこちらこそが今回の企画の本編であり、前半の
「ハムレット」は壮大な前座に過ぎないのではないかとさえ思う。
「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という状況での
コントをお題に出された、ということだ。
ちょっと違うが、状況が与えられていることからsituation-comedy
と関連があるのかもしれない。
(sitcom自体見たことないのでなんともいえないが)
言うまでも無く、トム・ストッパードの「ロズギル」が見られる
と期待して足を運んでは駄目なのだ

「コントばっかりで話が全然進まない」ではなく、コントそのものが
主役であり、ストーリーは一種の背景なのである。


「ハムレット」で一瞬見えたロズギルの姿が、「ロズギル」では
主役の視点で描き出される。
このシーンのために「ハムレット」はあったのではないかと思えた
くらいだ。


お笑い進化論』なる本は読んだことがある割りに漫才はTVでさえ
ほとんど見たことが無かったのだが、なかなか面白かった。
私が見たのはチーモンチョーチュウというコンビで、Wikipediaで
見ると普段のネタ(3文字ゲームなど)をやったようだ。


ロズギルとしての「演技」は正直期待していなかったのだが、
どこからがコント(ネタ)でどこからがロズギルとしての枠組み
なのか見ていて分からなかったということは、少なくとも棒読みでは
なかったということだ。
結末の不合理さを嘆く終盤の台詞は、原作の「ロズギル」にあった
ものに違いない。
地に近い役だとはいえ、「ハムレット」の主役2人よりよっぽど
うまかった。
最後、「悲劇」と銘打つだけのやるせなさは感じられた。



しかし、どうも構成全体が分裂しているというか、「ハムレット」
と「ロズギル」(という名のコント)の二兎を追っているというか、
焦点がいまいち定まっていない企画のように思える。
いっそ「ハムレット」も芸人でおもしろおかしくやってしまっても
いいのではないか。
「喜劇」ハムレットなら、台詞を忘れて台本を持ちながらグダグダに、
でも笑いを取りながらやった方が楽しそうだけれど、後半が日替わり
だから「ハムレット」のキャストも日替わりにしないといけないし、
それだと芸人の負担が大きすぎるかな。


余談だが、Amazon.co.jpで原作(和訳)を買おうとしたら、中古しかない上にやたら高くて断念した。
  

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