今日はりゅーとぴあの能(和風)シェイクスピアで、さらに会場も能楽堂だった。
りゅーとぴあは前回の
冬物語のように普通の劇場でやることも多いのだが、今回は能楽師を呼んだからだろうか。
能楽堂なので座布団に座って見る。
2時間強だったがなかなか辛かった。
どう座るのがベストなのだろうか。
階段状でも千鳥配置でもないので前の人でよく見えなかった。
能楽堂なので、右側に本舞台(後ろに松の絵が描かれている)で、左側に役者の出入口に通じる橋?(廊下?)があり、演技は基本的に舞台で行われる。
数年前に見た「マクベス」(市川笑也主演・りゅーとぴあ)と同じ会場かと勘違いしそうになったが、あれは東中野だったので、能楽堂はどこも同じようなデザインなんだろうな。
右奥に人が入れそうなボックス?があって、最初の嵐の場面はそこから声がしていたように思う。
「テンペスト」はこれが初見なのだが、実際に舞台で見ると、テクスト(
松岡訳)では目立たなかった“暗さ”を感じた。
アロンゾーをゴンザーローが慰める場面では、セバスチャンとアントーニオの悪意や反感が伝わってきて、アロンゾーとセバスチャンは仲が悪そうなのに、アロンゾーから「不肖の弟」のような言及がないのか不思議に思ったくらいだ。
もちろんアロンゾーは息子を失ったことで頭がいっぱいで、そんなことを言っている暇はないのだが、劇をもっと長くして人物描写を掘り下げてもよかった気もする。
エアリアルは
MNDのパックみたいな役柄かと思っていたので、能面のような無表情さに違和感があったが、後半のエアリアルがアロンゾー一味が発狂した様子をプロスペローに伝える場面で「空気に過ぎないお前」と言われていたのを聞いて納得した。
エアリアルはパックとは違って喜怒哀楽はないし、プロスペローの子分ではなく奴隷というのもある(奴隷だからパックと違ってミスをしない、ミスが許されないのかもしれない)。
パックとエアリアルの性格(性質)の違いが、中期喜劇と後期ロマンス劇の性質の違いを象徴しているような気がした。
なお、エアリアルは5人で演じていた。
1人は能面をつけた能楽師で、役者が本職ではないから台詞は別の人に読ませるというわけで、こちらは分かりやすい理由。
結婚祝いの見せ物をしたり音楽でトリンキュロー達を誘き寄せたりといった、動き(舞)が重要となる役柄はほぼこの能面エアリアルの役目だった。
能のことは全く分からないので、舞いに関しては何も言えない。
個人的には、結婚祝いの場面は他の妖精も使ってもっと華やかにやって欲しかった。
一方、演技を行う(台詞を読む)エアリアルが黒、白、赤、青の4人いるのは、アロンゾー、ゴンザーロー、セバスチャン、アントーニオに1人ずつあてがわれているから。
また、「空気」ということであちらこちらにいる雰囲気を出したかったのかもしれない。
彼女たちは一度入場してからは退場せず、舞台右に並んで座っていた。
エアリアルは近代では女性が優美に演じることが多かったと
松岡訳に書いてあったが、女性がたった1人しか登場しないので(他のシェイクスピア作品だと3人はいると思うのだが)、女優が余ってしまいエアリアルに充てられたのかもしれない。
(結婚祝では女神ばかり登場するので、最初から女役を想定して書かれているのかもしれないが)
『テンペスト』を書いたときに女役が1人しかいなかった、などの事情でもあったのだろうか?
プロスペローの役割が大きく、インパクトも強いので、独りで立っているだけでも観客を惹き付けられるような強力な役者を配さないと場が持たなそうだ。
今回は場が持たないということはなかったように思ったが、始終体を震わせて怒っているのが少し気になった。
いくら追放の身とはいえ、あんなに怒ってばかりいたら身が持たないのではないか。
最初の場面で「これはお伽噺だ」と感じたので、極端な方がお伽噺の登場人物としては相応しいのかもしれないが……。
怒りといえば、結婚祝いの最中にプロスペローが怒り出す場面もテクストを読んだときから違和感があった。
プロスペローというと怒っている印象が強いので、ここでミランダが「あんなに怒っているお父様を見るのは初めて」と驚くのはちょっと変な気がする。
アントーニオ達に怒りをぶつけるシーンはミランダは見ていないからいいとして、ミランダに身の上話をする場面はもっと抑えて演じた方がメリハリがついてよかったと思う。
キャリバンは醜悪な化け物という設定だが(読んだときには『
ベーオウルフ』のグレンデルを思い出した)、今回はぶち模様のマントを羽織った男性で、声も比較的高かったので、怪物という感じはしなかった。
松岡訳の巻末にある河合祥一郎の解説を読んだせいか、純真な原住民(?)といったイメージをもった。
最後にキャリバンがステファノーを見限る箇所は省略されていたが、1つの幻想の終わりとしてあそこはあった方がよかったのではないのか。
キャリバンとトリンキュロー達が遭遇するシーンは、それまでのナポリ王達のやりとりが暗く悪意すら感じられるものだったので、雰囲気を明るくする役割だと強く感じた。
(comic "relief"とでも言うのだろうか)
「足が4本」は同じ方向に足が4本生えているのかと思っていたが、今回はキャリバンと逆向きにトリンキュローが乗っかって、両側から足が2本ずつ生えた格好になった。
ファーディナンドはなぜか能面をつけて演技していたが、意図が掴めなかった。
まさかイケメンならぬ「イケ面」?(そんな馬鹿な)
もしや役者がキャリバンとみまごうばかりの不細工で、イメージを崩さないために面を着けているとも想像したが、カーテンコールで素顔を見たらまあまあだった。
面を着けるならむしろキャリバンに奇妙な面(鬼の面など妖怪を思わせるような)を着けさせた方が良かったのでは。
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