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ヴェニスの商人

アカデミックシェイクスピアカンパニー「ヴェニスの商人~肉はきれないよ。」


松岡和子が来ていてびっくり。


「喜劇だから軽やかに演じる」と書いてあったのにとっても後味が悪かった。

普段は強調されないジェシカへのユダヤ人差別が強く押し出されていたからだろう。
(そのせいで後半はあまり笑えなかった)

ポーシャとネリッサは「女性」という意味では社会の周縁に位置するため、ジェシカには寛容な態度を取るかと思っていたが……。
(ポーシャは見た目でユダヤ人を判断できないらしい)

あと、アントーニオがシャイロックをナイフで突き刺すシーンも。

後期の作品は「後味のすっきりしない」dark comedyと呼ばれるが、このMVは非常にdark。

ますますMVが嫌いになった。


ポスターには「裁判員制度の予行演習にどうぞ!」とあったことから考えて、シャイロック寄りというよりは、集団の怖さを表した演出のような気がする。

うまく言えないが、シャイロックに同情的と言われるアル・パチーノの映画とはどこか受ける印象が違って……憐れみより怖さが残った。

ヴェニス人(ポーシャ&ネリッサ含む)がユダヤ人を取り囲む演出が何度かあったせいだろうか。


舞台がなく、床を360度ぐるっと取り囲むように席が配置されている。

入退場は座席の間から。

一番前のベンチに座ったが、1時間過ぎたあたりから尻が痛くなった。
(2日経っても“尻凝り”が取れない(苦笑))


座席と舞台が近い(ほとんど境目がない)ので、頻繁に座席と絡んでいた。

モロッコ大公が箱の文章を観客(女官長や内務大臣などに見立てる)に読ませるのが特に面白かった。


衣装がみんな同じようなの(ポーシャとネリッサは白いチュニックに黒ズボン、男性とジェシカは黒ずくめでシャツにチュニック)は、当初「全役者が全ての役をやれるようにして、当日観客のリクエストで配役を決める」という計画があったからだと思われる。

原作ではシーンにいない人がいたり、退場しないまま役替え(モロッコ→老ゴボーなど)していたから、ちょっと分かりにくかった。

原作にない動きを付け加えるなら、誰が誰だかもっと分かりやすくしてほしい。


MVの注目要素の1つはアントーニオがゲイかどうかだと思うのだが、今回はちょっと怪しい感じだった。

冒頭で「(憂鬱なのは)恋か?」と訊かれて「馬鹿!」と怒鳴っていたし(図星だから過剰反応したのだろう)、別れを惜しんで抱き合ったりしてたし、ラストでは独り寂しそうだった。
ちなみに、MVはパチーノの映画、グレゴリー・ドーラン演出版(藤原竜也が出演)、板橋センター版を見たが、アントーニオがゲイでないのは板橋版のみだった。

もちろん、子供向けに書き直した版ではただの親友であり、手元にある中村妙子訳『ロミオとジュリエット』(ラム版がベース)ではなぜかアントーニオがバッサーニオと同じく「若い」と書かれていた。


もう1つの注目要素はジェシカの指輪の扱いだが、今回はジェシカが悲惨だったので、指輪も噂通り売り払ってしまったような気がする。

前述のようにジェシカはポーシャ達から蔑むような目線を送られている上、ロレンゾーが軽薄なタイプで(演じ方もそうだし、「こんな夜だった~」の場面でジェシカと事に及ぼうとするあたり、あまり誠実な恋人には見えなかった)、あれは財産目当てで結婚したんじゃないかと思えるくらいだ。

他の演出だと、ジェシカがユダヤ人であっても彼女の人となりを認めて結婚する好青年のように感じていたが……。

ところで、ジェシカはロレンゾーと結婚した時点でキリスト教徒に改宗しているわけだから、シャイロックと同等の視線を送られるのは行き過ぎのような気もするのだが……人の気持ちはそう易々とは変えられないってことか?

アントーニオを陥れようとしたユダヤ人の娘でもあるわけだし。

そうなると、どうしてロレンゾーがジェシカと結婚したかが謎になる……ジェシカとシャイロックは別物と見ているのか、憎まれ者のシャイロックの財産を盗み出させて間接的に打撃を与えたかったのか?

このエピソードが種本にあったか気になる。

シェイクスピアはどういう意図でこのキリスト教徒とユダヤ人との結婚を描いたのだろう……?


ユダヤ人と言えば、シャイロックの造形も気になる。

グレゴリー・ドーランはプログラム掲載のインタビューで「ユダヤ人差別のあった西欧だと、どうしてもシャイロック寄りに見てしまうが、ユダヤ人差別のない日本で上演したら違う視点でこの劇を見られるのではないか」というようなことを言っていたが、確かに当時の見方と現代の見方は違うわけで……現代日本でも「大阪人はがめつい」「アメリカ人はオープンで気さく」「イタリアの男は女と見れば誰彼構わず口説く」といったステレオタイプがあり、それらが漫画なんかで使われているわけだから、シャイロックが悲惨な目に遭うのは悪代官が正義の味方に罰せられるくらい普通のことだったのかもしれない(「大岡越前」とかで悪巧みをした悪代官が切腹の刑に処されても、同情する人はあまりいないだろう)。

もちろん、ただの悪役なら「ユダヤ人には目がないか?」とは言わせないわけで、そこがシェイクスピアの優れたところと言われているのだが……シェイクスピアがどういう思いでこういう脚色をしたのか、残念ながら伺い知ることができない。

ただの明るく終わる喜劇にしたかったなら、罰を受けて当然のような描かれ方をするだろうが……。

余談だが、新井潤美『へそ曲がりの大英帝国』には「パチーノの映画が『初めてユダヤ人に同情的』と言われているが、19世紀の名シェイクスピア役者エドマンド・キーンはシャイロックを切々と演じ、観客を感動させた」というようなことが書いてあった。(キーンの生涯は数年前に市村正親主演や宝塚で舞台化されたので、それで記憶に残っている方もいるかも)


前半(箱選びが終わるまで)は軽やかで喜劇らしい。

シャイロックも嫌みっぽい悪役といった感じ。

箱選びと肉1ポンドはそれぞれ別の種本から採られているが、箱選びだけだったら明るい雰囲気のまま幕を閉じたことだろう(尤も、後半がなかったら後世こんなに人気が出ることもなかっただろうが)。


このポーシャはよく言えば演技派、悪く言えば狡猾で計算高い。

色んな人を騙しまくり、ある意味黒幕とも呼べるぐらい。

特に印象的だったのは、前述のようにジェシカに蔑むような態度を取り続けることで、しかもロレンゾーが入ってきた途端笑顔を纏ってジェシカの手を握る(ロレンゾーがいなくなった途端手を握り潰そうとするのではないかと心配だったが、さすがにそれはなかった)。

このときロレンゾーとジェシカに留守を頼むのだが、どういう意図でそんなことをしたのか、心が読めずに不気味だった。(そう言えば、どうしてポーシャは、夫バッサーニオの友人とはいえ会ったばかりのロレンゾーにいきなり家を任せるのだろうか?何がしたかったんだろう?)

これでポーシャとネリッサが嫌いになった。

その後、ポーシャが妄想(色んな女から求愛されたが振ったら全員恋煩いで死んじゃった云々)を語る場面なんかは笑うところなんだろうが、裏表のある彼女の様態が不気味でとても笑うどころじゃなく、むしろ嫌悪感を抱いた。(指輪を奪うところは笑えたけど)

モロッコやアラゴンに対し嫌悪感を隠して取り澄ました対応をするのはともかく、バッサーニオに対してはしゃいでいるのすら演技ではないかと思わせるほどだ。

判事に化けシャイロックに判決を下す際、最後のオチ(とどめ)である「外国人がヴェニス人に危害を加えようとしたなら~」はわざと馬鹿っぽく読んでいたが、あれはどういうつもりだったんだろう。

場に不釣り合いで、何か言い様のない悪意を感じた。

このポーシャはトラウマになりそう(涙)。

こういう女は嫌いだ。

高校なら陰でいじめを煽動してそう。

ちなみに、同行したAさんは「ポーシャってもっと知的なイメージがあったけど…」との感想。


シャイロックは、ジェシカを平手打ちしたり父親らしく包むように抱きしめたり、“人間らしさ”が垣間見える演出であった。

ラストがシャイロック&ジェシカ親子がヴェニス人一同に取り囲まれることからも、親子の絆に焦点が当たっていたような気がする。

ジェシカが赤い腕輪を身につけているのだが、駆け落ちするとき家に残し、それをシャイロックはずっと身につけ、アントーニオを切ろうとしたところで誤って糸を切ってしまい、後にそれらは「シャイロックの遺言状」としてナイフに結わえ付けられてジェシカの手元に戻されるのだが、、、これもよく分からなかった。

ジェシカがそのナイフを壁にかけた仮面に突き刺すのも。


親子と言えば、アントーニオとバッサーニオは父子ほどの年齢差があるわけだけど、この(擬似)親子同士にダブルの関係はあるのだろうか。

シャイロックとアントーニオは、どちらも愛する「我が子」を恋人により奪われているわけである。

アントーニオがシャイロックの命を助けるのは、どこか共鳴する何かがあるせいかと思わせる一方で、今回の舞台では「キリスト教徒に改宗させ~」のところでシャイロックが持っていたナイフを胸に突き立て、シャイロックが悶え苦しむという恐ろしい演出があったので、むしろ生き地獄を味あわせたいんじゃないかと思ってしまう。
(実際に刺しているのか、象徴的な意味なのかはっきりしないが)

パチーノ映画版では、バッサーニオのため殉愛(?)するのを阻まれ魂の抜けたようなアントーニオが、どこか同情的な面持ちで死刑免除を申し出ていたが……。

ただし、作品全体から判断するに、キリスト教徒に改宗することは「いいこと」と描かれているようなので(例えばジェシカは改宗したことを喜んでいる)、改宗させて他のユダヤ人から孤立させようという発想はなく(「シャイロックはユダヤ社会から孤立してしまう」という指摘は確かパチーノ映画のプログラムに書いてあった)、ただ(価値観の押し付けで)善きキリスト教徒になってもらおうという発想だろう。

もう一つの申し出「財産はジェシカとロレンゾーに遺す」も意図が分からないのだが、この舞台だと、財産目当てで結婚したロレンゾーに益を成すためグルになっていると感じた。
(ちょっと深読みしすぎな気も…)


ジェシカがいなくなってからのシャイロックはどこか精神の均衡を崩したようで、アントーニオをいよいよ刺すときは狂った笑いをあげていた。

その一方で、大公が「お前は最後に慈悲を見せるのだろう」と言った後周囲が拍手したり、傍聴者たちから罵倒されるなど、周囲全員敵の状況で折れずに肉1ポンドを要求し続けるシャイロックは、言葉は合わないかもしれないが「強い」と感じた。

しかし、それだけ主張しておきながら、死刑を嫌がりアントーニオを殺害する機会を逃すのは少々惜しい気がする。

肉1ポンドを切り取るのをあきらめた後、シャイロックに財産没収が宣告されるのだが、その時シャイロックは「財産を全部取られたら死んだも同然」と言っている。
だったら捨て鉢でアントーニオを殺して死刑になればいいのに、と思ってしまった。
(逆上したシャイロックがナイフぶんまわして捨て身の猛攻に出たなら、『ハムレット』や『タイタス・アンドロニカス』のような死屍累々の状況になり、生き残った大公あたりが「友を救うために命を捧げた『ヴェニスの商人』の悲劇を語り継ごう」と言って終幕、悲劇として終わったことだろう)


そう言えば、女性が男装する劇はみんな喜劇な気がする。

どうしてだろう……異性装が既に喜劇的要素を含んでいるから?

逆に男性が女装するのは『夏の夜の夢』の劇中劇と『ウィンザーの陽気な女房たち』のフォルスタッフしか浮かばないが、どちらも喜劇だ。

 

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