Bunkamuraシアターコクーンで十二夜を観てきた。
シアターコクーンのコクーンシート(5000円)は大変見づらい。
チラシにも「見づらいお席です」と書いてあるぐらいなのだが、
それでも
舞台の半分しか見えないのに1つ上のランクであるA席と
2500円しか違わないのはちょっと納得がいかない。
(私は左側にいたので舞台の右半分しか見えなかった)
半分しか見えないんだからせめてA席の半額(4000円)にして
くれればいいのに。
1500円のプログラムをあきらめてA席で見ろという話もあるが、
プログラムはやっぱり記念に買いたいし……。
数年前にA席で「
あわれ彼女は娼婦」を見たときは椅子が固いと
感じたが、今日はそうは思わなかった。
他に困ったことは、劇場内全く電波が入らなかったことだろうか。
(au使用)
客席で入らない(携帯電話妨害装置?)というのはよくあるが、
モギリの後ろまで行っても入らないというのにはびっくりした。
他にも何人か、電波の入るところを探して携帯片手にウロウロ
している人たちを見かけた。
トイレがたくさんあることだけは素晴らしいと感じた。
一番下のフロアで20ぐらいだったろうか。
先日シアタークリエかどこかに行ったときは(あれはアガサ・
クリスティの「検察側の証人」だったかな)、3つぐらいしか
なくてずいぶん長い列ができていた。
前半は舞台が見づらいせいかあまり集中できなかったが、
後半はようやく慣れた。
どうせ身を乗り出しても手前半分は見えないので、声を聞きつつ
色々勝手に考えることにした。
シェイクスピア当時は芝居は「聞く」(hear a play)ものだった
ようだが、こんな感じだったのかな、と妙なことを考えたりした。
18時開演、休憩15分を含む3時間公演。
オリジナル要素が色々と挿入されており、原作よりも
ボリュームアップしているような印象を持った。
台詞や場面の省略も多かったように感じた。
悪くは無かったのだが、なんだかすっきりしない、
暗さのある公演だった。
dark comedyらしさを出したのだろうか?
後でBunkamuraのフリーペーパーの演出の言葉を見たところ、
「にぎやかなのに切ない」を目指していたようだ。
後期のコメディはだんだん日が沈んでいくようなイメージを
持つのだけれど、今回の公演に関しては、晴れているけれど
スモッグがかかっているような、そんな「明るいのに暗い」
イメージだった。
冒頭で熊いじめが出てくるからだろうか?
よく分からない不気味さや不安が漂っているような気がした。
1950~60年代の、ちょっと不気味なイメージを想起させた。
2日後、漠然とした不安を感じさせる夢を見たのだが、
この芝居のせいだったのだろうか。
すっきりしない、なんだか暗さのある芝居で、いやな気持ちに
なったりもしたのだが、色々と考えられたので、私にとっては
「いい芝居」だったのだと思う。
さっと楽しく見てそれで終わってしまう芝居も好きではあるが、
こういう風に悩まされるほうが(よくも悪くも)記憶には残る。
舞台は「潮風に朽ち果てた祭りの舞台」という設定で、
中央にウッドデッキのような木製の舞台が設置されていた。
その後ろには船があり、ポスター絵通りの風景。
大道具などが手作り感(あるいは安っぽい感じ)があったのは、
おそらくその設定を引き継ぐためだろう。
メタ発言が数回見られたこともあり、今回の公演をあくまで
「お芝居」と位置づけたかったのだろう。
「十二夜」というと双子をどうするかが問題になるが、
この公演ではシザーリオ(ヴァイオラ)・セバスチャン共に
松たか子が演じていた。
ラストシーンでは代役を立てず、1人で右に行ったり左に
行ったりして2役を演じた。
最後はオーシーノーとオリヴィアと仲良く3人で腕を組んで退場。
船長がセバスチャンの生存の可能性を述べる台詞がカットされ、
セバスチャンが現れ始めるまでヴァイオラは兄の生存を
全く知らず死んだと信じ込んだままのようだった。
途中でヴァイオラが兄を慕い、1人で兄と妹の二役(ラストの
再会の台詞)をつぶやくシーンがあるが、これがラストの
再会のときでも独白のように繰り返されるので、もしかすると
セバスチャンは本当は死んでおり、セバスチャン(とアントーニオー)
が出てくるのはヴァイオラの妄想なのではないか、
という疑いを持った。
この印象はおそらく、舞台上にセバスチャンが「いない」ことに
よるのだろう。
(私が最初に見た
トレヴァー・ナンの映画では男優がセバスチャンを
やっていたし、NINAGAWA歌舞伎もお面をつけた代役が
いたと思う)
途中にオリジナル演出として「原初、人間は男女1つずつの
頭を持っていたが、男女別々の体に分かれた」という伝説が
挿入され、シザーリオ/セバスチャンが1人2役の独白をする
ときにこの男女同体(hermaphrodite?)の絵が現れるので、
ヴァイオラが兄を恋い慕うあまり彼女の中にセバスチャン
という人格が生まれてしまったかのようでもあった。
兄を慕う側面がやや強調されたことにより、ブラコンの疑いが
強まったが(逆にセバスチャンはあまりヴァイオラのことを
考えていないからシスコンではなさそうだ)、ブラコン・
シスコンの男女の双子というとアルテミスとアポローンを
思い出した。
ヴァイオラは男(シザーリオ)でいる間は純潔を失うことは
ないのだから、ある意味アルテミスと通じるところはある。
後で調べたところ、当時は両性具有(hermaphrodite)が
理想のイメージだったようで、女装した肖像画を描かせた
王族や、エリザベス女王が男性的なイメージ(自分をprince
と呼ぶなど)を援用することがあったという。
《参考》
スティーヴン・オーゲル. 1999.
『
性を装う―シェイクスピア・異性装・ジェンダー』
竹田清美. 2009. 「シェイクスピア喜劇と異性装のモチーフ--
『十二夜』におけるヒロインの考察」
Evergreen 31, 11-32.
マライアが若い女性(少女?)だったのが意外だった。
映画版はちゃんと思い出せないが10代ではなかったと思うし、
NINAGAWA歌舞伎ではもっとどっしりした腰元のイメージだった。
髪を編んでいたこともあり、なんだか侍女というより
赤毛のアンのようだった。(髪が赤茶色だったし)
袖の長いTシャツに柄スカートと、ずいぶんとラフな恰好である。
サー・トービーは白髪まじりだったので、ずいぶんと
歳の離れたカップルだと感じた。
登場時から高い声で笑ってばかりでやたらにテンションが高く、
ヴァイオラがアルテミスなら「酒は天からの賜り物」と主張する
サー・トービーはバッカス、彼に付き従うマライアはバッケー
(バッカイ)、だから彼女はあんな風なのか、と勝手に
納得したりしていた。
あまりにテンション高く笑っていたので、最初はなんとなく
不気味だった。
シザーリオが初めてオリヴィアに会うシーンでは、
オリヴィアの台詞をこだまのように返していた。
マルヴォーリオをからかうシーンはかなり改変されていて、
指定する服装が「ニワトリの扮装」に変えられていた。
手紙のMOAIは"BGM"で、マルヴォーリオの解釈によると
バンザイ・ガンバレ・マルヴォーリオなんだそうだ。
(これには観客爆笑)
鳥の足だから黄色い靴下をはいていたのだろうが、
これは原作とのつながりをもたせたのだろうか。
ペンとインクを持ってくる条件としてマルヴォーリオに
鬨の声をやらせるのだが、そのときマルヴォーリオにのみ
スポットライトが当たって、終わったら暗転したので、
滑稽さと悲しさが表現されているような気がした。
マルヴォーリオに対する仕打ちを熊いじめにたとえることが
あるが、冒頭(ヴァイオラが髪を切る決意をした直後)に
実際に熊いじめをするシーンが出てくることが何らかの効果を
狙っていたのだろうか。
(熊いじめが出るのはアンドルーの台詞にあるからかもしれないが)
マルヴォーリオをからかうところは笑いどころなのだろうが、
からかいの陰謀だと分かっているから、彼が持ち上げられれば
持ち上げられるほど、落とされるときの落差を想像してしまい、
なんとなく暗い気持ちになるのだろうか。
恋に担がれた男が落とされる話というと『
ウィンザーの陽気な女房たち』
があるが、騙されるファルスタッフに暗さを感じないのは
彼のキャラクター故であろうか。
熊いじめといえば、現代の感覚では熊がかわいそうだと
思ってしまいがちだが、少なくとも中世では普通の娯楽だった
ようなので、ひょっとするとマルヴォーリオいじめも現代とは
別の感覚で受け取られていたのかもしれない。
中世では、もっと驚くべきことに人間の処刑見物も人気の娯楽で、
処刑場の向かいの家(家から処刑が見られる)が大人気だった
という記述を何かで読んだ気がする。
オリジナル要素としては、イソギンチャクとサザエとヤドカリの
恋物語が挿入されていた。
イソギンチャクに恋したサザエは「ゴツゴツしているから」
という理由で嫌われ、またサザエに恋したヤドカリもサザエに
相手にされないのだが、ヤドカリはサザエから殻をもらい、
サザエは裸になって死んでしまうという結末は何を表して
いるのだろう。
ヤドカリは借り物ということでシザーリオ/ヴァイオラのこと
だと思ったのだが、結末を聞いて分からなくなった。
きっとここは片思いの辛さ、叶わなかった恋の思い出を想起
しつつ聞くといいのだろう。
男女の起源のところはオーシーノー役が歌っていたが、
聞いたことのあるメロディだった。
グリーンスリーヴスあたりだろうか。
歌といえば、マルヴォーリオが手紙を読むくだりでは
「愛の賛歌」が演奏され、「手紙読むのに集中できないから
演奏止めて」とマルヴォーリオが楽師たちに声をかけていた。
オリヴィアは最初喪服(黒いノースリーブのロングドレスと
ボレロ)+ヴェールで登場し、2回目は喪服(ヴェールなし)、
3回目は黒ドレス+赤いボレロ、セバスチャンと結婚する
あたりでは真っ赤なドレスと変化していった。
髪型はまとめ髪で、シザーリオに恋するうちに変化すれば
いいのにと思ったが変化なし。
NINAGAWA十二夜ではお姫様っぽい扮装だったが、今回の
オリヴィアは髪型のせいか女主人(奥様?)の風格を漂わせていた。
初々しい少年のシザーリオ/セバスチャンより10は年上に見えた。
イメージとしては、どこかポーシャ(「
ヴェニスの商人」の方の)
に似ていた。
サー・アンドルー・エイギューチクが「脚線美」云々言われる
のは、当時の衣装がタイツみたいなもので足のラインが
ばっちり出ていたから、という記述を最近読んだ気がする
のだが、何で読んだのか思い出せない。
あとヴァイオラの「ちょっとでも動くとあるべきものが無い
ことがバレる」も、当時の下半身の衣装が一物を目立たせる
ような代物だったということと関連している(3股に分かれた
タイツというか…)、ということも書いてあったように思う。
当時の服装に関しては、こんな論文もある。
松尾量子. 2006. 「17世紀前半の英国の服飾に関する一考察:
女性による異性装と子どもの装い」 『国際服飾学会誌』30, 4-16.
ところで、芝居とは関係がないが、研究社のシェイクスピア・コレクションではTwelfth Nightが「
宴の夜」になっている
ことに最近気がついた。
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