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狂気の路地 (タイタス・アンドロニカス)

ピープルシアター「狂気の路地」

CoRich

見に行かなくて後悔する夢を見たので(笑)、見に行った。


タイタス・アンドロニカス』を新宿三丁目だか歌舞伎町のやくざの抗争に置き換えるという、なかなか興味深い試みである。


舞台がちょっと変わっていた。

両側に座席、その間に太めの通路のような舞台が横たわっている。

路地を表現したかったのだろうが、路地を挟んだ対立はさして見られなかった。

360度使えるので、演技の幅は広がるのかな。

観客におしりを向けることにはなってしまうけど。


最初に言っておくと、人名はみんな日本風(ラヴィニアは百合とか)だったのだが、チラシを入手できず情報源がないので、原作のままの人名で呼ぶということをお断りしておく。

なお、名前は原作と関連はなかった。

タモーラはゴート族だから郷田組、とかだったら面白かったのに。


全体として、自分たちの味付けできれいにまとめていた。

そっくりそのまま移し変えたのではなく、自分たちが表現したいものがあり、たまたま『タイタス』のプロットが合うからアイディアを借りた、といった感じだ。

このことは冒頭の場面――2代目組長(ローマ皇帝にあたる)が女達と遊んでいる最中に暗殺される――から感じられた。

原作そのままを求める人には向かないが、原作を知らない人でも楽しめる作りではある。


新宿版というやや無謀な試みをうまくまとめているなぁ、と半ば感心した目で見ていたが、連れはあまり気に入らなかったようで、そういう感想を聞くとやっぱりイマイチだったかなという気になるから不思議である。

後々考えると確かに細かい解れが多い。

まず、タモーラの弟(彼は前ローマ皇帝を暗殺するのだが)を処刑するのを決めるのはタイタスだが、「規則は守らねばならない」実際に手を下すのはタモーラ組の人間。

「アニキ」と呼んでいたが血縁かどうかは不明。原作で死ぬのは長男だったが…)


同様に(?)、ラヴィニアを犯し婚約者を殺した罪を被せて殺されるタイタスの息子たちはタイタス組の手下なのだが、一人はラヴィニアが襲われている現場でアーロンに刺殺され(これはいいのだが)、もう一人の殺害はアーロンか誰かに唆されたタイタス組の連中が殺している。

この場面はラヴィニアが痛ましい姿で発見された後な上、ラヴィニアの側で「あいつが犯人か! ぶっ殺してやる」と騒いでいるので、そこでラヴィニアが止めればいいのに、と思ってしまった(意識がなかったのかもしれないが)。

ラヴィニアと言えば、手と舌を切られたとは言え、(特に現代日本なら)他にいくらでも伝達方法はあるだろうに、といつも思ってしまう。

今回はラヴィニアの告発ではなく、タモーラ一味がスナックで悪事の自慢話をしているのをタイタス組が立ち聞きし、そこから血で血を洗う殺し合いが始まっていた。

そういやラヴィニア、指がないのにどうやって拳銃を引いたんだ?


タモーラとサターナイナス(やくざの三代目)が結婚するのはサターナイナス即位前であり、二代目は生前「タイタスを三代目に」と言っていたので、タモーラがサターナイナスと結婚する動機が薄い。

もちろん、タイタスはサターナイナスがタモーラと結婚しているのを知っていてサターナイナスを王位に就けるので、「タモーラが王妃になってやばい」という反応はない。



最初の場面で一つ思ったのは、「女が多い」ということだ。

『タイタス』で女というとタモーラ、ラヴィニア、乳母しか浮かばないが、この芝居ではわらわら出てきた。
男女同数くらいだろうか。

「やくざに惚れた女は~」と派手なワンピースを着た女たちが意気込みを語るシーンまである。

3代目になったサターナイナスがわけの分からない不安に苛まれるシーンもあるのだが、そこではサターナイナスの色っぽい情婦が登場し、慰めると共にアーロンが怪しいと仄めかしていた。

残念ながらこのシーンは観客にアーロンのずる賢さを示唆するものの、サターナイナスに直接アクションを引き起こさせるものではない。

一方、最終場でこの情婦は実はタモーラの手の者であると分かるのだが(但しサターナイナスをたらしこんだのは彼女独自の判断)、組の“母”であるタモーラの愛人を不利な立場に立たせてしまうという、やや皮肉な場面でもある。


タイタスの弟(タイタスを宥める役柄という意味で)は藤という長年の恋人(50歳前後だろうか)であった。

この作品では原作以上に人が死に、“血と暴力を嫌う”彼女も最終場ではサターナイナスと相撃ちになって死亡する。(タイタスの望むことを汲み取って銃を構える)


他に死亡者数が増加したエピソードがあって、まずタイタスが腕を切り落とすシーンは組の叔父貴(実際の血族なのか親友なのかはっきりしない)が切腹を要求されているし(彼はレイプ魔の濡れ衣を着せられ殺された男の父なので、父としてのタイタスの身代わりともいえる)、もう1人同じ濡れ衣で殺される男は、父親と一緒に殺害されている。


ラストシーンは、主要人物だけでなく下っぱ達もバタバタ倒れ、なぜか今まで殺された人々もやってきたので死屍累々となり(20人くらいか)、なかなか壮観であった。


ラヴィニアは原作とは違い、本物のレイプ魔を射殺したあと拳銃自殺した。

このとき嬉しそうな表情だったので、「敵討ちを果たしてやっと死ねる」だけでなく「愛する婚約者の元に逝ける」という印象を受けた。

蜷川版のラヴィニアは絞殺されるときに特に表情はなかったと思うけど(彼女はむしろディミートリアス達の首が切られるシーンで静かな微笑みを湛えていたことのが印象深い)。

そういえば、原作だとラヴィニアの夫の存在は希薄で、彼女は結婚していても妻ではなく娘として扱われている。



蜷川版だと流血は赤いテープで形式的に表されていたが、この公演ではそれすらなく、大惨事なのに全く血が流れなかった(エログロ好きの友人には大いに不満だったようだが、私は血がダメなので助かった)。

銃声が死(処刑)を表しているようだったが、ドスにまで機関銃はどうかと。



特に時代設定はなされていないようだが、どことなく昭和の香りがした。

冒頭で二代目が歌うのはなんだか歌謡曲ぽいし、周りの女たちの服もキッチュでレトロだ(最近そういう柄流行ってるから、判断根拠にはならないが……)。

「男は~」「女は~」という美学も、昭和を感じさせた。



原作通りか確認するのを失念したが、ヤクザの会話なのにいきなりシェイクスピア風の格調高い台詞が出てきて、合ってないようでいて合っていた(ような気がする)。

ローマ軍とやくざ、暴力の序列社会である2団体の共通性を垣間見るようで面白かった。


タイタスの部下たちが殺人に及ぶのは「血のたぎり」からであり、レイプ魔の正体を知ったタイタスと手下(弟?)が怒り狂うシーンは彼らの獣性を表現していたが、そういう方向の演出はチラシに書かれていた「正義と正義のぶつかりあい」とはむしろ反する気がした。

正義や大義名分は、ある意味理性的に掲げるものではないかと思う。

そう言えば、ラヴィニアが襲われる場面にタモーラはいなかった(この犯行をアーロンはタモーラに知らせてはいない)ので、犯行理由をラヴィニアに言い放つシーンも削除されていた。


タイタスがタモーラに息子(この劇では叔父貴)の命乞いをするシーンも、冒頭のタモーラを想起させるものではなかった。


一方、タイタスは原作では気が狂うが、このやくざタイタスは最後まで冷静さを失わなかった。

ラストの殺し合いも、敵討ちだけではなく秩序を守るため、という感じさえある。



アーロンはおそらく日本人であろう。

名前が「リュウ」なので、“劉”で在日中国人なり中国マフィアの元メンバーという可能性も考えたが、人種に触れた台詞はなかったので、“龍”だろう。

余談だが、舞台を日本に置き換えた場合、黒人を在日中国人とするのは、だいぶ前にシドニィ・シェルダン『女医』(Nothing Lasts Forever)のドラマ版で見た。

キャットというあだ名の黒人女医が李玉麗とかそんな名前になっていた(俳優は日本人)。



アーロンのイメージとしては、友人は「もっと狂気的なのがよかった」と言っていたが、そこで自分の中にあまりアーロンのイメージがないことに気が付いた。

決して長身ではなく、痩身でスキンヘッドないしかなり短く刈り込まれた髪、というぐらいだ。

彼は黒人だから悪人という属性を付与されているのだろうが、それを外見で表すとしたらどうなるのか?

当時だったら肌が黒ければそれだけでよかったのかもしれないが……。



劇団独自の味付けがされていていい、と冒頭では書いたが、残念ながらオリジナル要素(人物)に関してはさっぱり分からなかった(これは友人も同意見)。

冒頭のやくざ二代目殺しはタモーラの“息子”がアーロンに入れ知恵されて計画したようなのだが、実際の実行犯は知的障害の少年「太陽」である。

タモーラの息子は、太陽の母親「月」が太陽の病院代などで生活が困窮しているのにつけこみ、大金を積んで太陽を自爆テロさせるよう頼んだ。

原作のタモーラの長男は高貴な血筋だからと生贄に選ばれるのだが、この作品は卑劣な人間として組織に処刑されるのだから、暴力性により妥当な根拠が出てしまってよくない。

金を手にした「月」もやくざに二代目殺害の落とし前として殺されるが、「月」と「太陽」には象徴性があるようで「月と太陽は死んだ」と詩を語るシーンもあるのだが……どう本編と絡んでいるのか分からずじまいだった。

もしかしたら「路地」シリーズに共通して現れてくるのかもしれない。



もう一組のオリジナル要素として、知的障害の少女(前述の「月」の娘)とホームレスの老人がいる。

この少女(「みく」だから未来だろうか)は自爆テロの前あたりからなぜかホームレスと暮らし始めるのだが、どうもヤクザは彼女に売春させて稼いでいるようだ(但し、月はみくの仕事で家に金が入っているような言い方をしていたから、ヤクザが絡むようになったのは月の死後かも)。

少女はセックスが好きなようで、嫌々やらされているのではないし、他に稼ぐ術もないのでそれはそれで許されるのではと思うけれど、ホームレスの老人にとっては自分が彼女とセックスするのは罪のようで、少女に逆レイプ(?)されたときに「私はこの幼子に対して罪を犯してしまう!」と嫌がっていたが、力関係が彼の方が弱いわけではないのでみすみす逆レイプされるのはおかしいし、売春を黙認しているのだから結局は間接的に“罪”を犯しているのだから、自分の手を汚したくないのは偽善者である。


個人的には「知的障害」の「少女」が汚れない存在という考えには賛同しない。

むしろ、子供や赤子というのは善悪の基準もなく暴力性を持つものというイメージだ。


ラストで全員死亡した後このホームレスが入ってきて機銃掃射する意味が分からないが、空爆の効果音だったし、チラシに「バグダッドのように」とあったので現在の戦乱への言及と共に、過去の東京大空襲をも暗示しているのだろう。
少し前にタモーラが「土を少し掘り返せば数十年前に焼かれた土が出てくる」と言っていた。

  

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