キャラメルボックスは青臭い感じだと聞いていたが、確かにそんな感じはした。
冒頭で手紙を読み上げて全員で「でも、僕たちが(『ペリクリーズ』を)好きかどうかは分からない」と叫ぶなど。
中野ザ・ポケットはおそらく初見の劇場だが、きちんと階段状になっていて前の人が視界に入らず、見やすかった。
奥の席だったけど人をどかさなくても入れたので、座席の前にも余裕をもった作りなのだろう。
最初の埃鎮めはフォークソングを歌う二人組「ペリー&クリー」。
これには大笑いした。 いい名前だ。
LOVEという歌を歌い出したが、要は開場前の注意(携帯は気ってね云々)。
こういうインパクトのある告知だとちゃんと聞いてもらえていいかも?
映画前の注意(今は野球風だったかな)にも通じるところがあるかな。
ただ残念だったのは、本編とのつなぎ。
アンコールがかかって、アンコールする演目を籤で選ぶと「僕の大好きなペリクリーズ」が出てくるという寸法なのだが、とてもぎこちない。
流れ自体も人工的だし、二人組の話し方もいかにも作っている感じだった。
若手育成企画とか書いてあったから、これからの人々なのだろうか。
アンコールがかかるのは、ひょっとしたらサクラだったかもしれない。
隣の席は大声でアンコールを叫んでいたが、どうやら劇団員の友人らしかった。
歌の後もすぐには始まらず、テーブルの上に手紙が。
この手紙は演出家から役者への出演依頼で、シェイクスピアの生没年や『ペリクリーズ』の執筆時期といった背景知識が観客に与えられていく。
このことから分かるように、明らかに原作を知らない人を想定して作っている。
本編でも、博士の帽子を被った解説員が登場し、書籍における脚注の役割を果たしていた。
地域やアナクロニズムの説明が大半を占めていて、勿論テクストの揺れなんかは触れられていない。
手紙のシーンでは、やってられるかと手紙を丸めて投げ……青春演劇っぽい。
こういうシーンはどこか人工的な感じを受ける。
今回はどっかから予算をもらって育成する目論見があったからか、元々の劇団構成がそうなのかは分からないが、ほとんど若手。
アンティオカス王やセリモンをやった人は割りと歳が行っていたが、ゲストなので例外なんだろう。
マリーナと恋仲になるライシマカスの年齢設定をマリーナと釣り合うよう20代にするのか(さすがに10代で太守は無理だろう)、太守にふさわしく落ち着いた感じの30代後半~40代にするかが事前に気になったが、全員若手ではしょうがない。
芝居はそんなものかもしれないが、男性はちょっと怒鳴りすぎな気がして、聞いていて疲れた。
女性は声がソフトなのか、あまり気にならなかったけど。
なぜか地名、人名が原語に近い読みだった。
私が読んだのは
松岡版なので、本公演が基にした
小田島版だと表記が異なるのかもしれないが。
Tyreは「ツロ」と発音していた(ギリシャ語Τυροならトゥロと発音すべきで、「ツ」ならΤουροとなるはず)。
セーザって誰だろうと思いきやタイーサだった。
全体的に省略が少なく、しっかりと噛み締めてやっている印象だった(演出家のストーリーへのこだわり?)。
もちろん台詞が数行削られることはあったけれど。(例えば、ペンタポリスで一夜明けたあと王がペリクリーズに「昨日の演奏はすばらしかった」という台詞など)
『ペリクリーズ』は『
冬物語』と似た筋だが、冬物語と比べるとペリクリーズは善悪がわりとはっきりしている。
主人公一家とヘリケイナスは善人、アンタイオカス王は悪人といった風に。
安心して見られる「おとぎ話」なのだろう。
アンティオカス王の娘に求婚する際、求婚者たちの生首がさらされているのだが、これがなんと本物の役者を使っていた。
要は台の下が黒い布で覆われた装置なのだけど、実際の首でも生々しいというよりコミカルで笑ってしまった。
アンティオカス王とその娘の近親相姦はガワーの語りだと親娘共に嬉々としてやっているような言い方なのだが、今回の演技だとペリクリーズが謎を姫は嫌がっているようだった。
ペリクリーズが謎かけを読んでいる間、アンタイオカス王は娘のところに行って愛撫するのだが、姫は顔を背けていた。
タイアに帰国後2人の貴族に挨拶されて、それをヘリケイナスが追従だというシーンは、松岡訳の註だと「追従と言うほどの台詞ではないので、省略があったのではないか」と書かれているが、舞台上でなら貴族の表情や動作によって追従を表せるのではないかと感じた(実際にテクストに欠損があるかどうかは置いておくとして)。
少なくとも、舞台上で見た感じでは本で読んだよりも違和感を覚えなかった。
ターサスの人々は飢え死にしそうなのに元気よすぎ。
あそこは他の場面よりしおらしいテンションでやったほうが真実味があるのでは・・・。
最初に書いたように舞台の中央には大きな丸テーブルがある。
こんなのあったら邪魔だろうと思ったが、低いのでその上に上がって演技することもできるし、真っ二つに割れて奥に押し込むこともできるので、思ったよりも舞台が広く使えていた。
難破のシーンでは壊れる船を表していたように思うが、もうちょっとテーブルが割れるのを生かしてもよかったような気もする。
難破のシーンで、ペリクリーズが他の役者たちに抱えられて投げ出されるところは、なぜかすごく「小劇場ぽい」と感じた。
どうしてだろう。
ペンタポリスでペリクリーズがランニング姿(ト書きでは「濡れねずみで」)で登場するが、漁師1が「おいランニング!」と呼びかけるのは、この漁師が他の漁師をつぎはぎズボンや皮袋といった服装の特徴であだ名をつけていることを踏まえている……気がしなくも無い。
槍試合の前に王女に楯を掲げるシーンは、ひょっとしたら中だるみするかと思ったが、思ったよりも観ていて楽しかった。
それとは別に、各参加者が「やり」を使った言葉遊びをしていて、楯のシーンがたとえつまらなくても観客を楽しませる工夫をしていた。
槍踊りもしっかり組み込まれていて、「ペリクリーズが他より踊りがうまい」ということが後半でちらっと示されていたようだ(ペリクリーズの踊りを観て他の参加者が驚く)。
セーザはやや落ち着いた女性であり(20代からハイティーンを想定?)、14年後に再登場するときも同じ人が演じているのだが、松岡版の上演記録を見るとタイーサとマリーナを同じ役者が演じることも多いようだ。
同じ役者ということは、セーザは10代(ミドルティーン)のイメージなのだろうか。
ちなみにこの公演のマリーナはかわいらしい女の子のイメージであった。
サイモニディーズが茶目っ気たっぷりにセーザとペリクリーズの仲を取り持とうとするシーンでは、「手を取り合い唇を重ねよ」のところで恋人二人が手を取り合って喜んでおり、なぜかサイモニディーズが意外そうな表情をしていた。
あそこは特に驚くところではないと思うのだが……。
黙劇の後、ペリクリーズがツロに帰還することになるくだりで、サイモニディーズが「君、王様だったの!?」と驚く台詞が挿入されていたが、確かに王女と結婚するのに身分を隠していたままというのはやや不自然な気もする。
ライシマカスが「マリーナが由緒正しい家系だと分かれば結婚する」と言っていることから、女性が素性の怪しい男と結婚するほうが、男(跡取り)が素性いやしい女性と結婚することよりも簡単なのだろうか?
いくら槍試合で優勝し、立派な人だとわかっても、一人娘を謎の貧乏騎士に遣ってしまっていいのだろうか。
松岡版のあとがきによると、ペリクリーズがいつ髪とヒゲを伸ばすかが曖昧だそうだが、本公演ではセーザが死んだ後に髪を伸ばし、マリーナが死んだ(と思った)ときから髭を伸ばすようだ。
クリーオンに対して「髪は切りません」と言っているし、実際、その後は長い髪を束ねた部分鬘をつけている。
髭もじゃになるのはミティリーニにやって来てから。
但し、正気を取り戻した後の「ここ14年かみそりを当てなかったむさくるしい飾り」 は実際の状況と矛盾してはいる。
クリーオンの娘フィロテンはマリーナに比べて劣っているとされるわけだが、これに説得性を持たせるため(?)、フィロテンは太目の男性が女装してやっていた。
確かにあれではマリーナのほうが人気が出ると十分納得できた。
女性の役者にフィロテンをやらせるとなると、そばかすを描く、ほっぺを極端に赤くするなどの「美しくなくなる」工夫を凝らすのだろうか。
マリーナに会ったペリクリーズは、茫然自失というか、やつれ果てたというか、今までの立派な人格とは全く違う演技で印象に残った。
マリーナと聞いただけで悶えたり。
なお、マリーナは歌ではなくハープの演奏だった。
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